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素晴らしき人生

午後遅く。

 

 そのカフェは、美しくも酷くもなかった。幾度もの改装を拒み続け、そのまま残ってしまったような場所だった。

 

 窓際の小さなテーブルにふたつのカップ。

 

 ひとつの灰皿。椅子の背に投げかけられたコート。

 

 彼女はそれを、天気のように着ていた。それにしては、あまりにも良すぎた。

 

 ただ、静けさだけが、そこにはずっとあった。

 

 男は窓の外を見た。

 

 「僕らの前にいた人たちはいったいどこに行ったんだろう。」

 

 彼女は彼の視線を追わなかった。

 

 「知らない。海か何かじゃない」

 

 男は無造作に掛けられたコートを見た。

 

 「良いコートだね。」

 

 彼女は、それがそこにあったことを思い出したかのように、少しだけ顔を向けた。

 

 「ありがとう。アトリエのソファの上にあったから着てきた」

 

 男は、古びたレザージャケットから煙草の箱を取り出し、一本を軽く振り出して、唇にくわえた。

 

 火をつけると、ライターを煙草の箱の中に戻し、その箱をジャケットのポケットへしまった。

 

 「ああ、だからか。」

 

 「何が」

 

 「石膏の粉がついてる。」

 

 「あなたのも同じようなものでしょ」

 

 「違う。僕のは違うな。」

 

 「何が違うの」

 

 男は灰を灰皿に落とした。

「信仰だよ。時間を通った物にだけ残る、密度への。」

 

 彼を見た。それからジャケットを見て、また彼を見返した。

 

「じゃ同じようなものね」

 

 彼は首から下げたカメラに指を掛けながら、ほとんど笑いそうになった。

 

「ああ。たぶんね。」

 

 ウェイターが二人の後ろを通った。二人はもう何も頼まなかった。

 

「それで」と男は言った。「最近は何を作ってるの?」

 

「形にならないもの」

 

「前と同じような?」

 

「前より、形が少ないもの。ほとんど何も残さないもの」

 

「写真みたいに?」

 

「違う」

 

 彼女は少し待った。間違った言葉を十分に放っておけば、いつか役に立つのかもしれなかった。

 

「見えないけど、そこにあるって知ってるものを探すため。土星の輪みたいに」

 

 煙草は彼の指の間で燃えていた。

 彼女はもう一度コートを見た。

「だから私は、春が来る前に、二、三本残った煙草の箱をコートのポケットに入れておくの。秋まで、そのコートはもう着な

 い。その頃には、入れたことも忘れてる」

「それで幸せになるの?」

「少し」

 テーブルを見た。それから灰皿を見た。それから、二人のどちらも何も置いていない場所を見た。

「そういう時に思うの。これは……素晴らしい人生だって」

 男はその言葉を、ほとんど音にせず繰り返した。

「素晴らしい。」

 少し背にもたれた。彼女を馬鹿にしているわけではなかった。ただ、信じているわけでもなかった。

「あの、清潔でこぢんまりしたやつじゃないといいけどね。健康とか、良い趣味とか、有名なメゾンのコートとか……例え

 ば、H. N. ……何とか?」

「エンバー」

 

「そう。エンバー。」

 

 小さな沈黙。

 また彼のレザージャケットを見た。見惚れているわけではなかった。たぶん、測っていた。

「でも、そのジャケットは好き。コートと交換してみる?」

「このジャケットが欲しいの?」

「たぶん」

 彼女を見た。それから、自分が着ているジャケットを見た。

「いいよ。もちろん。」

 二人は立ち上がった。その動きは最初、少しぎこちなかった。冗談が本当になるとは、どちらも思っていなかったように。

 椅子の背からコートを取り、彼に渡した。

 男はレザージャケットを脱いだ。

 その一瞬、少しだけ確かさを失ったように見えた。

 二人はそれを交換した。

 彼のジャケットを着た。

 少しだけ大きかった。肩は彼女のものではなかった。けれど、彼女を拒んでもいなかった。

 重さ、裏地、煙草の匂い、ポケットの深さを確かめるように、彼女はその中で一度だけ身体を揺らした。

 彼女を見た。

「重い?」

「ううん。私より、少し後にあるだけ」

 何も答えず、彼女のコートを着た。

 似合っていなかった。あるいは、似合うには遅すぎた。

 二人は互いを見つめる間もなかった。

 小銭を皿に置く音だけがした。

 外では、光が落ち始めていた。

 二人は別々にカフェを出ていった。

外に出ると、彼女の着たそのジャケットは、そのままアトリエに戻るには重すぎた。

 下に着ていた朝の光のように柔らかな、彩度の低い水色のシルクドレスは、

 

 夕暮れの光を受けるたび、水面のように輝いては失った。

「早春の海には寒すぎる」

 煙草を吸う間もないまま、急ぎ足で駅へ向かった。ここからは、列車で行くしかなかった。

「こんばんは」

 駅員が挨拶を返す間もなく、彼女は続けた。

「ここからいちばん遠い海までの切符を、一枚」

 彼女を見た。

 一瞬、何も起こらなかった。

 その一瞬は、ほとんど永遠だった。

「でしたら、こちらになります」と駅員は言った。「ただ、最終です。それに、本日中にはお帰りになれませんよ。」

 少し間を置いた。

「向こうに、お泊まりになる場所はありますか?」

 何も答えなかった。ただ彼を見ていた。

「では十三になります。」

 残っていたいちばん安い席の切符を買い、その言葉が不合理になる前に列車へ乗った。

 安席の背もたれは、教会の長椅子のように、ほとんど垂直に立っていた。彼女より先に、背中が従った。

 厳格さ。

 正しさ。

 救い。

「父が嫌いだ」

 その時になって、煙草の箱が、自分のコートのポケットにあったことを思い出した。

 秋に見つけるはずだった、小さな幸福。

 けれど、そのコートはもうなかった。

 ……素晴らしき人生。

 普段パジャマ代わりに着ている、美しすぎるドレスも、彼女を眠らせてはくれなかった。

 終点に着くと、立ち上がり、座席の形に固まった身体を、彼女は一度、不器用に伸ばし、列車を降り駅を出た。

外の空気は、もう夜になっていた。

 暗闇の中に立つガス灯は、彼女の影を順番に引き受けた。

 伸ばし、縮め、また伸ばし、最後には、光の届かない場所へ投げ出した。

 舗装が終わるところまで歩いた。

 暗い浜辺では、砂と海の境界さえ消えていた。

「それにしても寒い」

 古びているのに、妙に綺麗なレザージャケットのポケットに手を入れた。

 すると何かが、握られることを許した。

 それを指で包み、ポケットから引き出した。

 潰れた煙草の箱、その中にライター。

 それから、小さな猫背のように曲がった二本の煙草。

 しばらくそれを見ていた。

「私たちの前にいた人たちは、どこへ行ったんだろう」

 誰も知らなかった。

 煙草を一本取り出し、唇に挟んだ。ライターの火は一度だけ迷って、それから、ついた。

 海に向かって煙草を吸った。

 吸い終えると、燃えかすを空の箱に入れて、それから二本目に火をつけた。

 風が、ジャケットを、シルクを、煙を、彼女の身体を通り抜けた。

 それも最後まで吸った。

 そして二つ目の燃えかすを、一つ目の隣に置いた。

 潰れた箱の中には、もう煙草は残っていなかった。

 ライター。

 そして、二つの燃えかすだけ。

 彼女は潰れた箱を、ジャケットのポケットに戻して、ほとんど風に消えるような声で言った。

 そして二つ目の燃えかすを、一つ目の隣に置いた。

 潰れた箱の中には、もう煙草は残っていなかった。

 ライター。

 そして、二つの燃えかすだけ。

 彼女は潰れた箱を、ジャケットのポケットに戻して、ほとんど風に消えるような声で言った。

「彼らはどこへ。

 誰も誰かを見つけられない。

 煙だけが、先に行った」

 最後の煙は彼女の口を離れ、海の方へ流れた。

 しばらくの間、海には縁がなかった。

 彼女にもなかった。

午後遅く。

 そのカフェは美しくも酷くもなかった。

 窓際の小さなテーブルにひとつのカップ。そしてもうひとつ。

 ひとつの灰皿。椅子の背に投げかけられたコート。

「前にいた人たちは、いったいどこに行ったんだろう」

知らない。

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