晩夏
「誰の言う本当の事なんかに、もう興味はなくて、蝉の声すら聞こえない。
晩夏はきっと涼しくて、わたしの声すら聞こえない。」
この夏は酷く暑くて、秋なんか二度と来ない季節のようだった。
放射線状に張り巡らされたあの街は、目的地まで必ず日陰を通って行けるのだが、
あのカフェに辿り着くには日陰のできない長い信号待ちがあって、ほんの数分の待ち時間でさえ耐えかねる。
ましてや空調設備もろくにない家の中では寝ることも簡単ではない。
逃れてきたはずのこの場所にも逃げ場はなかった。
直角に切られたこの街には、日陰のできない場所こそあれど、部屋の中は深海のように冷えている。
家具のない小部屋には夕暮れに西陽が差し込み、窓から入る光が瞼を焼いて、目を閉じるたび、
そこにはあるはずのない緑がうつった。
だがそれ以上に、あの轟音は熱のように身体の輪郭を歪めていた。
彼らひとつひとつが正しい事を言っているかのように絶え間なく鳴き続けている。
何が彼らの声をここまで運んでくるのだろうか。
「うるさいなぁ、小部屋に鳴り響く彼らにどれだけ文句を垂れても、誰にも聞こえやしない。
ましてや聞こえたとしても、私の声なんか蝉の声となんら変わりはしないか」
諦めというよりも、冗談めかしくて少し笑いそうになったが、描きかけの自画像は少しも動かず、私を見ていた。
「この音の中じゃ私の身体がどこにあるのかわからなくなってしまう。
いつか誰かに、そんなに暑い暑いと言っても何も変わらないのに、なんでそんなに文句ばっかり言ってるの、
こっちまで余計に暑くなるわ、と言われたな。
今は暑くないけど、本当にうるさいよ。」
私はその声から逃げるために、海の深く、水面に浮いている光すら見えないところまで潜水した。
それでもまだ聞こえる声は、水を伝って流れている。
「どこにいたって変わらない、それなら一番遠いところまで」
緑が残っているうちは、まだ遠くない気がした。
「もう鯨の腹の中にでも隠れて待つしかないか」
そこはきっと涼しくて、海が揺れているのさえ身体で感じることはない。
静かで、暗い。身体が少し動くたびに、骨の軋む音だけが聞こえる。
でもいつか息ができなくなってしまうだろう。
息継ぎをするには、その大きな魚の中から外に出て、水面に浮上しなければならない。
ましてや水上に上がったとしても、海の水をも蒸発させるようなこの盛夏に、十分な空気を吸うことができるのだろうか。
十五畳の深海には蝉の声すらもう届かない。
「あの身体を歪める声たちはどこに行ってしまったんだろう。
ただ夏が終わって秋が来る、そんな絶対に変わらない事を聞きたかったわけじゃない。
この深い海の底でも私の声が海を揺らして、どこかに流れていけばいいのに」
この夏は酷く暑くて、秋なんかもう二度と来ない季節のようだった。
狭い深海の中では瞼の裏にうつる微かな緑すらいなくなっていた。
ただ日の暮れた小さな部屋を揺らして、深海に消えていった。

