青の所在、緑の行方
私は明日、あの燃え盛る納屋の火を消すための水を汲みに、船に乗って海の遠くへ行く。
きっと明後日には、そこに着くから、それまで燃え続けていてくれるように願っていた。
気がつけばこの街にやってきて何年も過ぎていた。
船乗りたちの声に嫌気がさして、生まれ育った街を去ろうとしていた。あの時そう確かに思っていたが、決してそれだけではなかった。決心していたと言うよりは、とにかく遠くへ行きたかっただけなのかもしれない。そんな私を運ぶのは、彼らの焼けた声だった。
「これなら列車に乗って行けばよかったのかな、でもそれじゃあの島国からは出られなかったし。ただ列車だったらずっとあの景色もついてきてくれるな」
もう丘と羊だけは恋しかった。朝方の緑に流れる冷たい風と、それから互いを守るように集まる綿毛みたいな白。私はいつも飛ばされてしまわないか心配しながら眺めていた。そんな景色も今ではずっと遠く、微かに浮かぶ緑が水面より少し高く揺れていた。
「寒くないか?」
「ええ」
「船は何度目だい?」
「昔よく乗ってたわ」
潮風に焼かれた声に不機嫌そうに返したが、彼は何もなかったかのように続けた。
「旅をするのが好きだったのかい?」
「父が船乗りだったから、よく手伝わされてたの」
「それは大変だ。それで、船が嫌いになったのか?」
「船は嫌いじゃないわ」
「それはよかった。」
何も考えずに言った言葉だったけれど、少し驚いた。でも、とわざわざ続けるのだけ気掛かりで、後に何も残さなかった。
「港に着いたら何処までいくんだ?」
「港の近くの一番大きな街まで」
「向こうに誰かいるのかい?」
「誰も。ただあの街を出て遠くで暮らしてみたかったの、それに向こうに行けば、また何か違うものが見える気がして」
考えて口にした言葉はいつも、後になってまたこっちに戻ってくるのに、今は違った。
「仕事は?」
「石を彫ったり、絵を描いたり」
「それじゃあの街は最適だな、ただ向こうに住む場所はあるのかい?」
「着けばどうにでもなるでしょ」
「中々に根性があるじゃないか。でも人も多くてどの道も整備されていて美しい海もないあの街は、きっと窮屈に感じるよ。向こうへ行く人は皆そう言う。」
「そうかもね、少し冷えたから中に戻るわ」
確かに呑気なものだ。行ったことはある場所とはいえ、一人で何の当てもない。ただ何処かの誰かになってしまうことに気づいてはいたが不安ではなかった。不安ではなかったと言うと違うかもしれない。気にかかることがあるのも、他人のことを本当には気にしていない彼らには、このどこか緩まり切らない目の間の皺から、読めなかっただろう。それでもやっぱり、船を運ぶ波を止めるほどのものではなかった。
ふと窓の外を見ると、この逃げ場もないほどの青の中に少しの緑も見えなかった。ただ瞼の奥に残ったそれだけが、ずっと私についてきた。
目を開けると一瞬何処にいるのか分からなかった。何処にいるのか気づくよりも早く、安らかな草原でも、心地よい揺り椅子でもないことだけは分かった。外に出ると、私の知らない港が船の横で揺れていた。
「着いたよ。荷物はそれだけかい? 気をつけて、良い旅を。」
「ありがとう」
私は籐でできた如何にも片手で持てそうな椅子の背と脚に、太めの麻紐を何重かに付け、荷物を載せた座面と一緒に縛りつけ、それを背負って歩いて街まで向かった。
「どこの田舎も同じようなものね」
流れる景色は広い海を挟んだ場所でも大して変わらなかった。
遠ざかる焼けた声。
身体に残ったタールの匂い。
潮風に揺れる煙草の煙。
ポケットの中の水色の箱。
私を見る視線ですら同じようなものだった。
「丘や納屋はあるのかな」
螺旋状の階段の果てにある屋根裏部屋。石膏と絵の具のついた木製の床。屋根にも出られる窓。小さな丸テーブルに瓶に入った枯れた白いバラの花。その横に籐の椅子。ふたり掛けのソファに山積みの本とコート。少し歩いた所にあるカフェ。
狭いけどそれが心地よくて、なにかを作るには丁度よかった。
「アトリエとカフェの往復だけじゃ何も分からないのかな、でもこの街に来るまで知らなかったこともたくさんあった」
歩道を歩くこと。夜に寝て朝起きること。朝食は朝に食べること。決まった場所で煙草を吸わなくてはならないことや、悪いことをする時は人に見られてはいけないこと。
知ろうとして知ったことではないけど、気づいた時にはもう、どれが元通りなのかもはや知りたくもなかった。
でもそれは人との関わりの間だけではなく、私の日々の中にもずっとあった。
ストローを使わないこと。朝食は昼より後に食べること。水色の箱の煙草しか吸わないこと。些細で他人にとってはどうでもいいようなことだが、いつも私の身体の内側を守っていた。ポケットから手に取った煙草の箱はすでに潰れ切っていた。
「はぁ、とりあえずカフェに行こう」
一番近くのカフェには煙草は売っていないから歩いた。そこから来た距離よりまた数十歩多く歩いた。
カフェに着いて煙草を買い席に着こうとしたが、いつも座っている窓際のテーブルは空いていなかった。普段なら諦めて出ていっても良かったけど、とにかくすぐに帰りたくはなかった。仕方なく真ん中に置かれたテーブル席に相席した。いつも一席ずつ間隔を空けて座っているので、私もそうした。珈琲を頼んでポケットの中の小銭を数えたり、灰皿を近くに寄せたりして、どうにか忙しそうに取り繕った。
誰も話してこないことを願っていたが、前の席に座った老人が話しかけてきた。
「こんにちは。」
当たり前だがここの言語で話しかけてきた。
「こんにちは」
ぎこちなく返したら、私の言葉で老人は言った。
「何処から来たんだい?」
「海の向こうから。でも何年かこの街に住んでるわ」
上手に返したつもりだったのに、やはり私はこの街にはいなかった。きっと後何年住んでも、彼らは私の言葉で話しかけてくるに違いない。少し不機嫌そうに煙草に火をつけた。
「若い人がその煙草を吸っているのは珍しいね。」
そう言うと、私と同じ箱をポケットから取り出した。
「戦争の時に配給された煙草なんだ。ここに帰ってから少し違う物も吸ってみたけど、結局これが一番だ。」
「嫌なことを思い出したりしないの?」
この時ばかりは先に出た言葉が、いつか私に戻ってきてしまうのがわかった。
「するさ。でもこのカフェで吸っているのもこの煙草さ、今は嫌なことなんかないよ。」
私は吸い終わると、吸殻を灰皿にいつもより少し強く潰した。灰皿には焼け跡が付いていた。
「あなたは海の向こうにあるあの港町に行ったことがある?」
「あるよ。でも遠くからしか見たことがないけどね。」
「そっか。そこから見た丘の緑も綺麗だった?」
「ああ、確かに綺麗だったよ。」
静けさの後、老人も灰皿に焼け跡を付けて、横の男と話し始めていた。
窓から差す光が、部屋に漂う塵を照らしながら、煙草の煙を紫色に揺らしているのを見ていた。
いつの間にか運ばれてきた珈琲はまだ少し暖かかった。
ここの人たちは私と話す時皆、共通言語で話してくれるが、同じテーブルにいても、彼らが互いに話す時は彼らの言葉で話す。私はそれを見ているのがなんだか好きだった。六席の長テーブル、この小さな島の中でも私は、何処からかやってきた、別の世界のひと。
周りにある椅子はまだ一席ずつ空いていた。
ふと、祖母と一緒に住んでいた家にある、今は多分使われなくなってしまった丸テーブルを思い出した。木製の古くて大きなテーブルは祖母と母と私の三人で使うには大きすぎるが、それを円で囲うように切れ目なく切られた特注の椅子がとても好きだった。
母が小さかった頃、どこで知ったかもわからない土星の輪。そこに行くと言って聞かなかったのを見かねて、祖母が街の家具屋に頼んで作らせた物だった。
そしてその椅子が土星の輪だと知った子供の私も、そこに行くと言って聞かなかった。何処にあるのかさえ知らなかったが、とにかく行ってみたかった。初めのうちは、隣の国どころか、街のどこかにあるとさえ思っていたかもしれない。
そしてこの街に来た時に、丸テーブルを買いアトリエに置いた。
小さな土星にまだ輪っかはない。
気がつくともう家具屋にいた。珈琲代を自分で払ったのかさえ覚えていない。払っていなかったとしても、次に行った時払えばいいとすら思っていた。
「こんにちは。ここで木製の椅子を作ることはできますか、変わった形なのですが」
店主は面倒くさそうに答えた。
「今は依頼が立て込んでて、難しいな。」
次の言葉を言う前に店主が続けた。
「椅子はそこに並んでるので全部だよ。」
腹立たしくなり店を出ようとすると、見覚えのある籐の椅子が並んでいた。
「これは幾つありますか?」
「そこにあるのと、確か裏にもう一つ。」
「じゃ三つ、全部ください」
支払いを終えると、「軽いからこのまま持って帰ります」そう言って店を出てアトリエに帰った。椅子の脚が脛に当たるたびに、瞬きが遅くなったけれど、アパートの前に着くまで椅子に重さはなかった。ただ、今急に、十数分の全部が襲ってきた。
少し後悔しながら階段を登り、一息ついて家に入り、椅子を丸テーブルに沿うように並べた。
「これじゃ流石に輪っかにはならないや」
そう文句を言ったけれど、少し嬉しかった。
まだ欠けている土星の輪に、一つ空けて座ったけど、前の席には誰もいない。
老人の言ってたことが気になって、また歩いてカフェに向かった。もうそこに老人はいなかった。仕方なく歩いた。
私の街は昔、戦争でほとんどが潰されていた。
いつの日か、丘の上にある焼けた納屋を訪れ、一冊の本を拾い上げた。その本は焼け焦げていて、断片を拾い集め一つに綴じて本としてのカタチを保っていた。私はそれを持って帰ってどこかの引き出しに大切にしまった。
「何が書いてあったかなんて覚えていないけど、きっと大切なことだったはず」
急ぎ足で家に帰り、ソファの上にコートを造作もなく投げた。コートは床に落ちて石膏の粉が舞い上がり、西陽を淡くぼやかした。すでに石膏塗れだったコートが汚れることは気にしていなかったけど、横に積まれていた本の山が崩れ落ちた。決まりも規則もなく積まれていた訳じゃなかった。だからと言って重い本が下というわけでも、読んだ順というわけでもない。
「まあどうせこうなってたか、むしろ探しやすいや」
崩れた本をまたソファに積みながらあの本を探したけど、見つからなかった。
「きっと家に置いたままだ」
今になって思い出した本、持ってきていなくて当然だった。何処にしまったのかさえ分からない。でもあれを読めば何か大切なことを思い出せる気がした。
丘のある港街はまた燃え始めていた。
「きっとあの時、美しい丘の緑はなかったんだ」
籐の椅子を一つ取って背と脚に紐を通した。遠くへ行く時はいつもそうしていた。座面に明日描くと決めていた絵と荷物と本を幾つか積んで縛り付けた。一番大切に読み古していた本だけは置いて行かなければならなかった。その代わりにそれの背を外してバラバラにした。
思い出したかのように宙に舞っている石膏の粉が辛くなって、窓を開けた。ふと外を見るとさっきの老人が煙草を吹かしてどこかに向かっていた。
「使わなくなった物を入れて置いていたあの納屋、あそこから火が出てるんだ」
私も水色の煙草の箱から一本取り出して少し吸って部屋に投げ捨てて、荷の積まれた椅子を背負って、立ち始める熱を感じる前にアトリエを後にした。
外に出て目を閉じると緑だけがぼんやりと残っていた。あの火を消しに行かなければ。
いつもより早歩きして港へ向かった。躓かないように石畳の溝を見ながら歩いた。途中、誰にも会わなかった。前を向かなくても港に近づいているのが分かった。わかりたくなかった。父のと同じあの焼けた声。私を見る視線が遠くなるほど、近くに感じた。
急にアトリエの窓を閉め忘れたのを思い出して、一度だけ足を止めた。もう遅すぎるのは知っていた、ただ少し気になった。気にしたくなかった。またさっきよりも早く歩いた。
港に着くとそこにいた船乗りたちに尋ねた。
「海を挟んだ島国の大きな橋がある港町に行きたいの」
「それは運がいい、ちょうど行くところさ、ただあそこにはもう何もないよ。」
「ええ、あとその前にどこかで水を汲みに行きたいの」
「水? それなら汲まなくてもいくらでもそこにあるじゃないか。」
私は何も答えなかった。
「まあいい、準備をするから乗っていなさい。」
「ありがとう、でも手伝うわ」
進んでいない船に乗って、波に揺られるのより、油で汚れる方がましだった。
荷物を先に船に乗せた。それを他の荷物と一緒に、布を掛けてロープで柱に固定した。船乗りが係留索を解き、防舷材を二人で上げて、古くて黒ずんだ索をまとめた。
「ほら吸いな。」
水色の箱。
手についたタールの匂い。
息をするたびに揺れる紫。
焼けた声。
「寒くないか?」
私はここから土星の輪を指差して、確かめた。

